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「お坊さん」令和3年9月 明源寺 寺報『梵鐘』291号

更新日:2021年12月26日

 お坊さんは、お寺に生まれたからお坊さんなのではありません。「願わくは衆生と共に」という願いを持って、みなさまと一緒に歩むことで、お坊さんとなって行くのです。自分の生活のことよりも、みなさまと歩むことで、いろんなことに気づき、心の面で確かなものとなって、成長していく過程でお坊さんになって行くものです。お坊さんは、別に偉い訳ではなく、お寺が特別な存在ではないのです。何故なら、全ての人が人間である以上、無明という宿業を持つ存在であることに変わりはなく、そこに僧侶も在家も無いからです。そのような視点がなければ、本当の意味での坊さんではありません。

 それは、学校の先生が教員免許を持って生徒に教えるから先生なのではなく、生徒と共に自分も学んでいくことで先生になって行くことと同じです。また、例えば、親は子供を産んだから親なのではなく、一緒に歩むことで、自分も成長していく過程で親になって行くことと同じことです。そういう視点が無いと、「自分は指導者だ。君たちは教えられる者だ。」という偉そうな先生になり、「子供は親のいうことを聞け。」みたいな親になり、生徒や子に対しての、思いやりや敬う心がありません。子供たちも、大人も、人間として、そんなに違いがあるものなのでしょうか。夫婦も、結婚したから夫婦なのではなく、生活を通して、お互いが成長していく過程で夫婦になっていくものなのです。

 そういうことを言えるのは、人間として、知識の多少ではない、常に迷ったり、苦しんでいたりすることに隔たりは無く、同じだということがあるからです。私たちは、自分で本当の自分のことを知ることができません。それは、常に動き回っている心が、常に動き回っている心をしっかりと捉えることができないからです。その常に動き回って、考えごとばかりしている心を分別心・マインドと言います。その分別心・マインドを根本的に自覚できないことを無明と言います。人間として無明であることが、人類始まって以来であることを宿業と言い、「無始曠劫以来」とお経に書かれています。

 仏教の初期段階では、この分別心を修行で何とかしようと頑張っていましたが、人間である以上どうすることもできないことに気が付き、やがて、分別心をやっつけるのではなく、分別心があることを知ることで、「これも分別心か」と自覚し、次第に慣れ、分別心を操り、分別心から自由になった本当の世界が広がっていることに気が付きました。これが、大きな乗り物に乗っているような感じであることから大乘とか、一乘と表現されます。これが大乘仏教の思想起源であり、大乘や一乘の境地を知ることができたのは、実は分別心のおかげであります。専門的になりますが、「分別心即大乘」と説いたのが龍樹の「中観仏教」であります。そうしている内に、大乘や一乘のことを中心的に求めたために、観念的になってしまい、また、訳が分からなくなりました。そこで、「いや、分別心のおかげで大乘や一乘があるのだから、分別心をしっかりと受け止めよう。」と説いたのが、世親(天親)の「唯識仏教」です。二人とも『正信偈』にも出て来る人物です。

 その後、曇鸞、道綽、善導、源信、法然というお坊さんが『正信偈』に出ておりますが、よくよく見てみると、誰もが「願わくは衆生と共に歩もう」という願いが根本にあって、その願いとは私たちがお願い事をする願いとは次元が違って、「人間の本質に根差したはたらきなんだなぁ」と気が付いたのが親鸞です。「願の元を探れば経典には法藏菩薩の四十八願として書かれていますし、誰もが、自分のお願い事ではない、一切の衆生と共に歩もうという願があることで、一人の独立した本質に根差した自己を歩みとすることができるものなのだ」というが浄土真宗です。願いを別の言葉で表現すれば、「我が光、限りなからん。我が命、限りなからん。」です。「我が命、限りなからん。」とは、長生きするという意味ではなく、「生死を超え、永遠に変わらない」という意味です。「我が光、限りなからん。我が命、限りなからん。」を一言で言えば「南無阿弥陀仏」です。「南無阿弥陀仏」は、限りなき光、変わらない命として生き、一切衆生と共に歩みたいという願いを表現した言葉です。その願いによって、開かれた広大無限の世界を浄土と言います。その浄土の世界は、死んだ人、生きた人の隔たりも無く、往生も成仏も含まれます。こういうことが言えるのは、私たちに宿業があり、マインドがあることのおかげなのです。それを外すと、思議された信心やプレゼンスになります。分別心が常にあり、マインドが常にささやいている現実があることから、信心やプレゼンスも身を通して現実的です。そのことを表現すれば、「弥陀の名号となえつつ 信心まことに得る人は 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもいあり」の心境です。                     合掌


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