「まことの世界」は静かだ。静かなのは、自分が無いからだ。焦ったり、頑張ったり、イライラしたりは、自分があるからだ。良い所を見せようとしたり、評価を上げようとしたり、そのような自分がいない。そのような自分は、後から、成長過程で出来上がった自分だ。もともとの世界には自分がない。考えなくても大丈夫なのが、もともとの世界だ。もともとの世界が「まこと」なのだ。
「自分」が、吹っ飛んで「まこと」に気が付いたのか、気が付いた時、「自分」が吹っ飛んだのか、それは、分からない。心が、「月」に奪われた時、「月」一つになる。釈尊でいえば「明けの明星」を見た時、心が奪われ、「明けの明星」と一つになっていた。その時、自分は無かった。その後で、「まこと」の世界のあり方を観察したのが「縁起の法」だ。縁起の法を観察して、悟ったのではない。釈尊は、「まこと」となり、その後で、世の中が縁起として、ゆるやかに、法則に則り流れているから、心配しなくても大丈夫な確信を得た。その時、「涅槃は寂静」であると知った。「まことの世界は静か」という意味だ。
「禅」とは、「しずか」と読む。静かにしていないと気が付かない。静かとは、自慢や見栄や金儲けとかと無縁という意味だ。毎日、ただ、坐る。同じように、ただ、坐る。目的も無く坐る。ご利益や、成果を気にしないで、坐る。考えない。デフォルトモードになる。自然に、海馬が整理して、大丈夫にしてくれる。坐禅や瞑想は、そういうものだろう。
日曜日の『心の時間』で、簔輪顕量先生が、陸上の為末大さんと「瞑想について」お話をされていた。簔輪先生は、「釈尊の瞑想内容を、順を追って、追体験することで、釈尊の悟りに近づく」とお話しされていた。でも、それでは、次第に悟るという「漸悟」の姿勢だ。「次第に悟りに向かう」は誤りではないが、「難行道」で、人間の能力が次第に向上して悟るというものだ。
六祖慧能は「頓悟」だ。神秀の漸悟とは違う。慧能の詩はこうだ。
菩提本無樹 明鏡亦非臺
本來無一物 何處惹塵埃
(菩提は、もともと、樹というものはなく、明鏡も、また、臺というものもない。本来、無一物なので、何れの處に、塵埃を取り除く必要があるのか。)
それは、慧能が、「まことの世界」を知った時、自分が吹っ飛んでしまい、「まことの世界」に、「菩提の木を育てるように日々世話をするとか、毎日鏡を磨くように、心を磨くということも必要がない」ことを、神秀の詩をもじって、詩にしたものだ。
なぜ、毎日、悟りを目指して、努力する必要がないのかといえば、我々、一人、一人が、「ひびくもの」を持って生まれているので、頑張る必要がないからだ。誰もが、悟りに気が付く物を持っていて生まれており、もともと、悟りそのものであるので、あえて、遠くに、悟りを求める必要がないからだ。誰もが、同じように、「ひびく」。釈尊だけが特別なのではない。慧能だから、頓悟したのではない。もともと、誰もが、釈尊で、慧能で、道元で、日蓮なのだ。
次第に、人間性を向上させて、釈尊に近づくのは、「漸悟」で、「難行道」。もともと、誰もが、「まこと」であり、誰もが、「まこと」に気が付くことが出来る。努力も、頑張りも、向上する必要もない、立派にならなくても良い、「ひびい」たら、頑張る自分はいなかった、頑張る自分は本当ではなかった、それは、「しずか」ではなかったことも分かる。それは、「頓悟」で、「易行道」だ。
滝に打たれなくても、山を走らなくても、長い時間我慢して坐禅しなくても良い。「坐禅は安樂の法」とあるように、楽なのが坐禅だ。滝に打たれなくても、山を走らなくても良いのは、「行」とは、「まことが現行している」「まことが顕現している」いる意味だからだ。『教行信証』の「行」も、「まことの世界」が「現れている」「現行している」意味だ。
「まことの世界」は、「しずか」だ。目立とうとする自分はいない。頑張る自分もいない。
「壊れた自分」「ネジが無いと思っていた自分」も、成長過程で壊れ、傷づいて、無くしてしまったものだった。もともとの「まこと世界」は、壊れたり、傷ついたりしないものだった。
「まこと」に気が付いていないと、「まこと」でないものを、「まこと」であるとする。「まことでない世界」は、うるさい。ばたばたして、派手。見栄っぱり。見栄を張る自分がいる。
「まことの世界」は、みんな、誰もが、「ひびく」存在。優劣は無く、一瞬で、「ひびく」。まことの世界は、調和している。その調和を、自然の理という。「まことの世界」は、みんな、同じ、みんな一緒。特別なことはない。特別な人もいない。まことの世界は、自由。時間も無い。愛に満ち溢れ、思いやりに溢れ、大事に思う気持ちに溢れている。身に満ち溢れている。
(これらの文章は、インスタグラムに毎日書いているものです。他にもありますので、インスタの方をお読みください。)
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