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「デジタルデトックス」

明源寺は、「生きるか・死ぬか」、そのような状況にある方に寄り添う寺だ。僕自身が、いつも、そこにいる。昔は、学者を目指す人間として、学会活動が中心だったが、それでは「死にたい」「消えたい」から立ち上がることが出来ない。「死にたい」「消えたい」は、知識教養レベルで太刀打ちできるものではない。知識教養は「大脳の考えレベル」で、人間のドロドロした深い深層までは及ばない。本当の意味で人間に向き合っていない。しかし、しっかりと学問として、定義して、筋道を立てることは重要なことだ。そうでなければ、自己満足に陥る。自分の書いたことを、冷静に確認できない。誰にでも、分かるように伝えることが出来ない。


近いうちに山形市の職員の方々が「デジタルデトックス」の打ち合わせに来られる。明源寺が、現代社会の歪に「苦しんでいる方」や「ストレスを抱えて、どう生きて良いのか分からなくなっている方」への支援活動をしている関係で、市が明源寺の支援活動を支援してくれるのだと勝手に思っている。市の支援と言っても、お金での支援はない。予算は、市から降りない。市の支援と言えば、大抵は、企業支援・地域活性化支援とかの場合、予算が降りるが、明源寺自体、ゼロ円で活動をしているので、お金の支援は特に要らない。しかし、その支援を、お金を出さずに支援する山形市は有り難い。お金を出すことだけが、支援ではない。その点を、分かって支援してくれるのが有り難い。


市との打ち合わせの翌日にあるのが、「歯科衛生専門学校」での授業だ。坊さんが「歯科衛生専門学校」でお話をする経緯は、同級生がその学校の先生をしている歯科医で、以前、彼が奥さんと一緒に明源寺に坐禅に来た時、「最近の若者は、ちょっとしたことで落ち込んで不登校になったり、イライラし、心の面でひ弱で安定していないので、何か、仏教の方から心のお話をしてもらえないか。」という所から、彼の授業の1コマを頂いて、僕がお話をするというものだ。学校の中でも、不登校、退学の問題が切実だということだった。こういうことも、「生き詰って、訳が分からなくなりやすい方」に向けての支援活動の一環だ。現代社会に生きる人々は、ストレスを抱え、キレやすく、イライラして、ちょっとしたことで、訳が分からなくなる。同級生に「坊さんが現代社会に向き合わなければ、仏教の意味は、どこにあるのですか?」とはっぱをかけられた。


それは、上から目線で、教えてあげようというものではない。僕自身が、心に闇を抱え、最近でも「死にたい・消えたいの声」や「イライラ」や「落ち込み」や「ドロドロ」の状態にある。いつも、批判され、罵詈雑言の中にいる。訳が分からないケンカをふっかけられる。僕自身の心も、ひ弱なうえに、大事なネジを無くして、壊れてしまっている。だから、「死にたい」「消えたい」の状況が分かる。他人事ではない。明源寺の活動の原点は、僕自身の問題解決のためでもある。


しかし、だんだん心が丈夫になって、次第に立派になって、大丈夫になるのではないことを知った。坐禅は、楽だから、心をちょっと整えるのに行っている。心を鍛えるためではない。ガマンして、心を強くするものではない。心を強くすることは無理なことを知った。そこは、誤解のないようにしなければならない。


人間が、立派になるのではない。それは無理。生き詰る。ただ、人間、誰にでも、能力に関係なく、大丈夫な心が与えられている。誰もが、等しく、力強いものを持っている。それは、人間の努力や頑張りで気づくことは出来ない。むしろ、頑張らないで、ボーっとして、何気ないゼロの時、ふと、思いもよらず、広く、強く、自由で、明晰さを兼ね備え、通じ合い、尊重し合い、敬い合い、時間に執われない心を知る。優劣も無く、誰もが、平等、ひとつ、一相一味、静かで、言葉が無い、暖かで、いろんなことを受け止められ、一杯一杯にならいのでパニックにもならず、明晰な智慧が有るので最善の方法で解決できる心を与えられている。廻向されている。


どろどろ、ダメダメ人間に、具わっている。だから、どろどろ、ダメダメを変える必要はない。変えようとすると生き詰る。死にたくなる。限界がある。それは、どろどろ、ダメダメ人間に生じるが、人間の頑張り・努力の心にはない。頑張って、心を強くして、人間としての品位を上げるのだという思いには無い。自分は優秀だ、成功者だ、立派な人物だ、上に立つものだ、幸せ者だ、という気持ちの中にも無い。それは、「金の鎖」に繋がれていて、そこに、満足しているので、かえって、遠くにいて、ややこしい状態だ。


むしろ、「訳が分からなくなって」、「ゼロ状態」で、「これまでの頑張り努力価値観がダメなことを知った」人が、変な満足感が無い分、近くにいる。「死にたい」「消えたい」「失敗した」「挫折した」「生き詰った」人の方が、変に成功した人、変に偉そうな人、変に上から目線の人より、「本当の世界・本当の自分のあり方」の気付きに近い。


本当の世界が、本願の世界。広大無辺で、自由で、時間の概念が無い、一相一味、頑張りのない、静かな世界。それを「南無阿弥陀仏」で知る。「南無阿弥陀仏」は、本願だ。もともと、誰にでも、具わっている願だ。


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