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「ドロドロした自分」

「ドロドロした自分」「ダメな自分」「重たい自分」「傷ついた自分」「死にたい自分」をどうするか。そこにかかっている。


結論から言うと、「そのような自分は、どこにもなかった。いなかった。あると思っていた自分は、吸い取られ、ひっくり返り、底が抜け、消えてしまい、月になり、山になり、家々になり、草木になっていた。これが本当なのだと思った。」「ドロドロした自分」「ダメな自分」「重たい自分」「傷ついた自分」「死にたい自分」は、いなかった。本当の世界は、広く、清らかで、エネルギーに溢れ、時間も関係が無く、のんびりしていて、束縛ななく、自由で、力強く、静かで、安心していられ、通じ合って、分かり合っている。尊重し合っている。隔たりが無い。今まで以上に、リアルな現実で、分かれていない。自分が無いので、自分と「何か」ということがない。自分が無いので、机と一つ、山と一つ、花と一つ。思いも無く、計画も無く、先のことも心配がない。ながれのまま、時間が過ぎる。一日が終わる。安心、満足、充実、適切、相応、一つ、直接、間がない、船に乗っているみたい。


「ドロドロした自分」「ダメな自分」「重たい自分」「傷ついた自分」「死にたい自分」が、ひっくり返って、吸い取られ、底が抜けて、そのような自分いなくても、それを支えている世界がある。それが本当の世界。「父母未生以前本来」「傷つく以前」「罪を犯す以前」「汚れる以前」「挫折以前」「ア・プリオリ」「浄土」「デフォルトモードネットワークでつながっている世界」。


「自分」があると、腹が立ち、喧嘩になる。「自分」を守ろうとするからだ。その自分は、本当に自分なのか?本当の自分なのか?それは、「父母未生以前」ではなく、父母から生まれて、育った過程で、これが自分だと思った自分だ。育ち、作り上げた自分だ。自分を立派に育てるために、頑張らねばならない、努力して、いろんなことが出来、いろんな知識を得、身に附けなければならない。いろんな武器、いろんな服を持たねばならない。そうやって出来たのが、今、自分だと思っている自分だ。


僕も、「本当の自分とはどういうものか」ということについて書いて来た。しかし、それは、「本当の自分なるものが、確固としてあるのではなく、今まで自分だと思っていたような自分が消えて無くなり、吸い取られて、山や月と一つになったので、自分というような自分は無くなり、広大な、清らかな、時間が無いけどリアルな現実に受け止められた存在だ。それを「空」と言っても良いし、「浄土」と言っても良いが、「空」なるものが、実体的にあるのでも、「浄土」なるものが実体的にあるのでもない。「空も、また、また、空として、どこにもない。」「浄土も、三界を超えている。」


それは、イメージされた世界ではなく、もともと、誰もが、具えている。具えているイメージでもな。一つの、考え方や見方では無くて、考えを超えて、超えているけれども、考えよりもリアルな現実として、持っていたことに気が付く。イメージは、遠くに想像することだが、「あったゎ」「持ってたゎ」「むっちゃ、近かった」。説明も、解釈もない。ストレート。


ただ、「ドロドロした自分」「ダメな自分」「重たい自分」「傷ついた自分」「死にたい自分」の「ドロドロ」「重石」「傷」「壊れた感覚」「欠損した部分」が、癒され、「ああ本当に大丈夫なんだ」と分かるのに、時間がかかる。どちらかと言えば、「ドロドロ」「重石」「傷」「壊れた感覚」「欠損した部分」はそのまま有るが、もっと、広大で、エネルギーに溢れ、清らかで、静かな、分かり合える、通じ合えている、一つの、束縛のない、主張のない、自慢のない、のんびりしていて、理屈のない世界に、支えられていることで、「傷や重石は本当ではない」、「こっちの広い方が、本当だな」だ。


「煩悩即菩提」とは、「煩悩のまま、何をしても良いんだ。何でもありだ。好き勝手に飲み食いしてしても自由でオーケーだ。欲望肯定、これが悟りだ」ではなく、「ドロドロ」「重石」「傷」「壊れた感覚」「欠損した部分」は、「ドロドロ」「重石」「傷」「壊れた感覚」「欠損した部分」のままだが、それより広く、清らかで、エネルギーに溢れ、静かな、自由な世界に支えられている感じのことだ。「煩悩のまま何をしても良いんだ」というのは、そのように思っている自分が有る。そのような主張がある。肯定している自分がいる。言い訳をして、自分の欲を守っているから、違う。


「悟ったらどうなるのか」と質問を受ける。もはや、自分がいないのだから、広大な、静かな、自由な、通じ合えていて、大満足な、リアルな、力強いエネルギーに溢れたままに生きることとなる。


この「自由」ということと、「何をしても良い」「勝手気ままに生きる」「いい加減に、楽に好き勝手する」が、混同されるが、広大な、静かな、エネルギーに溢れた世界は、批判がない、受け止めしかないので、その人たちをも、受け止めている。一杯一杯になることも無く、汚れることも無く、受け入れても、大丈夫なまま、清らかなままだ。


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