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「ニセの宗教」

今、「霊感商法」が問題となっているが、似たようなことは、よく見かけるので、何が本当の宗教かが分からない状態になっている。そいう意味では、宗教界全体も、難民状態にある。学者は分かっているのかと言えば、文献から離れられないことと、学者自身が、文献から得たことを「これが真実だ」「これが悟りだ」「信心獲得だ」としているので、本当の意味での転換が無い。


「ニセの宗教」と「本当の宗教」の大きな違いは、「価値観の転換があるか、否か」が、大きなポイントだ。


「価値観の転換」」とは、「人間的な価値観」がひっくり返って、「宗教的な価値観」となることだ。


「人間的な価値観」では、低いレベルからだんだん高くなって、段階を踏んで、上を目指すというものだ。「宗教的な価値観」は、もともと、誰もが、完璧なあり方を持ってこの世に生まれて来ているというものだ。その完璧なあり方を持っている世界は、広大で、清らかで、エナルギーに満ち、静かで、永遠で、変わることが無く、ものすごいリアルな感覚だ。


これは、イメージされた世界ではなく、イメージのない衝撃がある。その衝撃が、転換であり、その衝撃を「目覚め」「招喚の勅命」「廻心」「見性」「信心獲得」「南無」「帰命」という。


誰もが、その世界に気が付き、衝撃を得る。気付くことに、優劣は無い。献金の多少は関係が無い。献金の多少を言うのは、人間的な価値観だ。少しずつ段階を踏むのは、人間的価値観だ。特別な奥義や秘密の教えがあるのかのように説くことは、人間的な価値観からの魂胆だ。


本当の宗教は、人間的な価値観とは違うものだ。自分が無い。これまで生きた来た「頑張る自分」「少しでも上達して、知識を得て、努力する自分」が、ひっくり返り、吸い取られ、消える。これまでの価値観の底が抜ける。


人間的価値観の底が抜けて、自分が消えてしまって、受け止められた世界が、広大で、清らかな、静かな、愛に満ちた、永遠で、変わらない、イキイキとしたエナルギーに溢れた、誰もが同じ、誰もが素晴らしい、心の奥底で通じ合っている世界だ。


その世界には、批判がない。全てを受け入れる。誰もが尊い。優劣がない。それをキリスト教では「愛」という。受容のことだ。本当の宗教は、平等で、段階が無く、愛に満ち溢れている。「ビックラブ」だ。争いが無い。誰もが心の底で通じ合っている。寂しくない。一人でも平気だ。認められなくても、気にならない。もはや、献金の多少は関係が無い。境界線が無い。


「霊感商法」は、結局、「商法」で、欲だ。本当の宗教は、お金と無縁なもの。


本当の宗教は、シンプルな教えだ。それは、誰もが、もともと、素晴らしいものを持っているにもかかわれず、それに気が付かない状態でいるからだ。気付きに、理屈は要らない。ちょっとしたことで、誰もが、気付く。奥義や解釈は無い。わざわざ地獄だの、先祖の祟りだの、悪い霊だのを出して、それからの逃れる方法、お清めの方法など、物語が無いのが本当なのだ。それは、全て物語。人間の恐怖心に訴えるものだ。


本当の宗教は、「地獄に落ちても、もう満足しているので、安心して、地獄で生活できる」というものだ。「もう、不足が無いので、どこで、何をしていても、脅されようが、毀誉褒貶されようが、変わらない安心感がある」ものだ。常に、清らか。常に、安穏。脅しがある時点で、アウトだ。死後の世界、過去世、先祖の霊、悪霊など、出た時点で「アウト」。物語だ。「本当の宗教」は、今、この瞬間の、満足した現実にある。生死を超えた満足、地獄極楽を超えた満足がある。


本来のあり方に気付くことに、理屈は要らない。シンプルでないと気付けない。解釈すると遠くなる。イメージではない。研究して、分かるものではない。ちょっとした心の動き、ささいの出来事、風景、お花、山、月で、「ハッ」と、ひびいて、自分が吹き飛ばされ、ビックリして、落ちた世界が「本当だ」と知る。


理屈は邪魔になる。でも、本当のあり方の雰囲気を感じてないと、本当のことに気が付けない。


道元は「だだ、目的を持つこと無く、坐れ」と言う。親鸞は本当のあり方を「南無阿弥陀仏を称えることで、気付く」と説く。「南無」は、「本願招喚の勅命」としての気付きのこと、「阿弥陀佛」は「アミターバ・アミターユスの広大無辺で、清らかな、時間も関係が無いあり方のこと」だ。そのあり方は、言葉を超えているから「不可思議」「妙」という。「不可思議」は「思議してはいけないよ。考えてはいけないよ」という意味だ。その「不可思議」が、「神秘主義」「ミステリアス」と混同されている。そこも、「ニセ宗教」と「本当の宗教」の違いから、峻別する必要がある。


「神秘主義」「ミステリアス」には、「神秘主義」「ミステリアス」に対する憧れがある。本当のあり方には、「憧れ」や「知りたい気持ち」が無い。「憧れ」や「知りたい気持ち」が強いと、もともと、持っている「本当のあり方」に気が付くことが遠くなる。


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