私たち人間は、罪を犯すもの。
私たち人間は、自慢したり、調子に乗ったり、落ち込んだり、死にたくなるもの。
私たち人間は、自分で何とかしようと思っても、どうすることもできない心を持っているもの。
私たち人間は、大脳を持っており、その大脳をなくことが出来ず、大脳がいろいろ話しかけて、その声に従ってしまうもの。
その大脳の声に従って起こすのが、犯罪。
その大脳の声に従って調子に乗ったのが、自慢。
その大脳のダメ出しの声に耳を傾け、「何て自分はダメな人間なんだ」「生きる価値の無い人間なんだ」「自分は役立たずだ」「役に立たない人間は、死ぬべき」「自分は世の中の迷惑でしかない」「生きていても、迷惑をかけているだけなら、死ぬべき」「でも、死ぬのが怖い」、大量の薬、大量のアルコール、訳がわかない状態での飛び込みや飛び降り、「誰かを殺して、死刑になる」。
それは、私たち人間が、大脳を持つ限り、他人事ではないもの。
立派な自分だけが、自分なのではない。
私たち人間は、失敗をするもの。
私たち人間は、罪を犯すもの。
私たち人間は、時に、心が壊れてしまうもの。
私たち人間は、ストレスを抱え、重たくなり、病んでしまうもの。
それは、大脳を持っている限り、どうすることもできないこと。
宿業。罪業。
宗教での「やさしさ」「思いやり」「愛」「慈しみ」は、立派な人が、「余裕をもって」ではない。
宗教での「やさしさ」「思いやり」「愛」「慈しみ」は、誰もが、大脳を持つ限り、同じだから。
宗教での「やさしさ」「思いやり」「愛」「慈しみ」は、同情ではない。
宗教での「やさしさ」「思いやり」「愛」「慈しみ」は、他人ごとでないから。
宗教での「やさしさ」「思いやり」「愛」「慈しみ」は、「罪を犯す」「心が壊れる」「心が病む」「死にたい」が、自分のことだから。
宗教は、上から目線が無いもの。
宗教は、立派な人が、余裕のある心で、「導きましょう」では無い。
宗教で「誰もが等しい」という場合の「等しい」は、「誰もが、罪を犯し、心が壊れ、心が病み、死にたくなるものだ」の、「等しい」。
宗教での「誰もが等しい」は、「罪を犯し、心が壊れ、心が病み、死にたくなっても、誰もが、例外なく、そんな自分をも、自分たらしめて、変わらない“本当の自分”を持っている」の、「等しい」。
宗教での「誰もが等しい」は、大脳がダメ出しをしようとも、何も出来なくても、それに関係なく、大脳の知らない別次元で、垢つかない心を持っている本質。
人間の本質は、清らか・のびのび・明るい・静か。
それは、イエスも、ムハンマドも、釈尊も、日蓮も、道元も、親鸞も、同じように気が付いた答え。
時代に関係が無いから、本質。
変わらないから、本質。
国や民族の枠に関係が無いから、本質。
誰にでも当てはまるから、本質。
考えなくても大丈夫だから、本質。
大脳の判断ではない、大脳の知らない本質。
大脳が壊れても、大脳の病んでも、大脳が死にたくなっても、大丈夫な本質。
「前世の悪業」「過去世の祟り」があるかのように説き、それを取り除く除霊は、大脳にイメージさせられたものだから、無視しても良いこと。
大脳でない「本質」の知り方は、その都度、その都度、「これは大脳が思い描かせているんだなぁ」の大脳のはたらきを自覚することで、大脳の声を切り離し、従わないことの積み重ね。
大脳でない「本質」の知り方は、その都度、その都度、「これは大脳の声」「これも大脳の声」の切り離しで、大脳の束縛から出ること。
大脳でない「本質」の知り方は、その都度、その都度、「大脳は、いつも、いろいろ考えているんだな」で、だんだん、ダマされなくなること。
大脳でない「本質」の知り方は、その都度、その都度、「大脳は、考えることが仕事なんだね」の大脳の本質をも知ること。
大脳でない「本質」の知り方は、その都度、その都度の、大脳の想い描いていることを切り離す、「想い分け」。
いつの間にか、あまり、大脳のはたらきに振り回されなくなっている自分。
いつの間にか、安心して暮らしている日常。
いつの間にか、大脳の「頑張れ」「上を目指せ」「立派になれ」「負けるな」の声から解き放たれた凡夫。
大脳でない「本質」の知り方は、その都度、その都度。
特別なことをしないこと。
大脳でない「本質」の知り方は、イメージトレーニングの無いもの。
気にならなくなっていた、いつの間にかの安心。
同じ自分でいられた、安心。
毎日の積み重ね。
本質は、変わらないもの。
本質は、無くならない。
本質は、死んでも消えない。
本質は、永遠。
それが、宗教。
人をして、人たらしめている。