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「仏の教え」令和3年10月 明源寺寺報『梵鐘』292号

更新日:2021年12月26日

 僕が、なぜ、生き詰って、苦しんでいる方へメッセージを発することに取り組んでいるのかの理由は、人間、誰しも、生き詰るものであり、それは他人事ではなく、誰もがたまたま生き残っているからです。勇気がないとか、怖いからというだけで、人間誰しも生き詰るものなのです。それは、人間のあり方が無明を根源としているからで、それを宿業と言います。でも、宿業は全てを受け入れる大地なのです。宿業として生き詰るように出来ていることが、本当の意味でイキイキとした自由な自分に還ることができる入口なのです。生き詰ることによって、自分らしい自分とはどういう自分であるのかを知るきっかけとなります。一皮むけた、力強い自分に還るには、生き詰まりは大事な意味を持っています。宿業が大地、宿業が浄土やワンネス、ピンチがチャンスです。それを釈尊はどう説いているのでしょうか。

 仏教は迷いの道理を知ることが悟りの道理となり、そのことが自由で解放されたイキイキとした静かな生き方となることを説くものです。少し専門的になりますが、迷いの因と果を知ることが、解放された世界の因と果に通じ、それは苦・集・滅・道の四聖諦として示されます。迷いの結果である苦しみは迷いの原因である集としての無明に基づいています。迷いの原因である集とは、人間の心が常に動き回り、心が心を正確に知ることができないことを言います。おサルのように動き回る心を、おサルが番人となっているようなもので、それは一生懸命考えごとをしてばかりいる大脳が、自分が考えごとばかりしていることを正確に自覚できないようなものです。まして、人間が大脳を持っている限り、考えることをやめることもできません。考えられた自分を自分とし、考えて予定を立てた将来を、自分の人生でなければならないと決めつけていることを、なかなか自覚できません。ちょっとしたつまづきで、どうして良いのか分からなくなって、目の前が真っ暗になり、心がパニックに陥り、「逃げ出したい」「全てを無くしたい」と思ってしまいます。人間が人間として生まれた時点で、その苦しみの構造は始まっており、それは人類誕生時から始まっています。これを仏教では「無始以来」「無始曠劫以来」と言います。人として生まれた以上、構造的に全ての人が生き詰ることに決まっているのです。生き詰っていないと思っているのは、少し調子が良い程度で、ちょっと調子に乗っていい気になっているからです。でも、すぐに足元をすくわれ、ショボンとすることでも分かるでしょう。結局、「こんなはずではなかった」というのが、大脳で生きている我々の宿命なのです。このような人間のあり方を善導大師は「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身」と表現します。私たち人間にとって、これが真実です。そのような身なのです。それは大脳がある限り、考えないということができないからで、その構造から逃れられないのです。だから、誰でも、例外なく、生き詰るようになっていると言えるのです。それを、お金を得たり、出世したりして、生き詰っていないかのように思っているだけで、必死に取り繕っていますが、それが本当の幸せと言えるかは疑問です。

 しかし、仏教では、このような迷いの道理の原因と結果を知ることが、悟りの原因と結果となることを説きます。迷いの道理の原因と結果を抜きに、悟りの世界へ至ることはできません。「曠劫よりこのかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身」を抜きにするならば、考えられた悟りとなります。それは身の事実が無いことで、頭で考えた観念となるからです。このような大脳を持って生き詰る身の事実を、事実であると知ることが、悟りとなります。ただし、その知り方は、頭で考えたような静かな知り方ではありません。生き詰った状態でいえば、爆発してしまいそうな、大暴れしたくなるような、発狂寸前のような、ぎりぎりの極限状態での「そっちじゃない」との選択や「今、感情が高ぶって爆発しそうになっている」との心象風景が、すごく目に焼き付き、心に焼き付いて、それを経験しての涅槃寂静なのです。その静かな世界とは、周囲が気にならず、他人に煩わされず、他からの評価はどうでもいい意味で寂静なのです。「自分は自分、何を言われても良い、ほっておいてくれ、自分は自由だ、もう縛られない、自分が自分らしいままでいられるように生きるのだ、しかし、周囲を見渡せば、全ての人が自分と同じような心理状態で苦しんでいる、そのような苦しみと共に歩みたい、みんな同じで一つではないか、どこにも違いは無い、この静かな世界は自由で、力強く、楽しいものだ、繕う必要もなく、全てが素晴らしく、同じだ、これが本当に自然で、肩に力の入れない自分らしい自分でいられる世界ではないか」というのが、「涅槃寂静」の世界です。「涅槃寂静」の世界は常にその後も現前し続け心から離れず、また、生き詰ったぎりぎりの状態の心象風景と別にあるのでもありません。                                    合掌 


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