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「南泉牡丹」

僕が、なぜ、毎日、このインスタを書いているのと言えば、ちょっとした気づきで、ドロドロした人間の心が、自由で、力強くて、広大無辺な心に満たされるからだ。それは、特別なことではなく、誰もが、もともと、それぞれの心に、自由で、力強く、広大無辺な心を持っているので、驚くことではない。イライラも、死にたい、消えたいも、不安も、悲観とも、付き合って行ける。


「付き合っていける」と書いたのは、人間である以上、いろいろな感情、考えることは、無くすことが出来ないからだ。マインドはマインドであることを知ることで、客観的になる。客観的になることで、訳が分からずに、「怒り」や「死にたい」衝動から離れることが出来る。「怒り」や「死にたい」は、生きている限り、無くならない。常に、付きまとう。だから、その付き合い方を間違うと、衝動に駆られる。死にたい気持ちは、誰にでも起きる。特別ではない。ただ、言わないだけだ。


では、どうすれば、自由で、力強く、広大無辺な心に気が付けるのかと言えば、考えすぎないでいることだ。人間は、いつも、考えてばかりいる。なるべく、これは「考え」と知って、べたべたしない。そのために、同じことをする。茶道の先生や禅宗のお坊さんのようにだ。同じことを、同じように、毎日続けていれば、考えないで済む。繰り返すことで、気が付きやすい。


曇鸞は、なぜ気が付けないのかということについて「一に淳(あつ)くないから。淳(あつ)くないと有ったり無かったりする。二に一つでないから。一つでないと決定することが無い。三に相続しないから。相続しないと余念がまじる」と言う。まあ、いい加減でもダメだということだ。でも、一生懸命すぎてもダメだ。一生懸命は、考えの世界のことだからだ。


きのう書いた「南泉牡丹」のように、「うわさ話」も、気付きに遠くなる。「誰々さんは、悟ったんだって」という「うわさ話」をして、他人を気にすることは、自分に、もともと、具えている広大無辺な、自由な心から遠くなる。自分のなすべきことを「ただ」する。無目的に「ただ」する。目的を立てて、それに向かうことは、考えだ。「ただ」坐りたければ坐る。「ただ」念仏する。念仏は、広大無辺で、自由で、力強い、誰もが、もともと、持っている心のことだ。


それが「阿弥陀」で、「阿弥陀」とは「アミターバ・アミターユス」の広大無辺で、自由で、力強くて、いつでも、どこでも、限りのないはたらきの心だ。「南無」「帰命」とは、それに、「ハッと気付いた、招喚の勅命として気付いた」という意味だ。


たいてい、シンプルなのだ。教義教学は、複雑すぎて遠くなる。学問の世界も、遠い中でも最も遠い。


「こころの時代」の「シャマタ・ビバッシャナ」の話も、いっぱい解釈して、訳が分からない。「シャマタ・ビバッシャナ」とは、南泉の言葉で言えば「牡丹の花を見て、気付いた」という意味だ。「シャマタ」が「牡丹の花を見たこと」、「ビバッシャナ」は「ハッと、気付いたこと」だ。それを、弟子は牡丹の花を見ながら、うわさ話をした。それで、師匠に「お前は、いつでも目覚められるのに、夢を見ている」と、注意された。


浄土とは、「得生者の情のこと」と曇鸞は書いている。それは「浄土のいろいろな荘厳された世界は、気付いた人が、気付いた感情を述べたものだ」という意味だ。それは「得生したい」と願っていることではない。死んでから、このような世界に生まれたいと願っているのではない。浄土経典は、得生者が、その気づいた世界を表現している。それは、諸仏が同じように気づいた世界であり、その気づいた内容も同じで、我々一人一人、誰もが諸仏と同じように気が付けるという意味だ。それが「第17願」だ。


「第18願」の「至心・信楽・欲生」というのが、気付いたらどういう心境になるのかを表現している。


「至心」と言うは、「至」はすなわちこれ真なり、実なり、誠なり。「心」はすなわちこれ種なり、実なり。「信楽」と言うは、「信」はすなわちこれ真なり、実なり、誠なり、満なり、極なり、成なり、用なり、重なり、審なり、験なり、宣なり、忠なり。「楽」はすなわちこれ欲なり、願なり、愛なり、悦なり、歓なり、喜なり、賀なり、慶なり。「欲生」と言うは、「欲」はすなわちこれ願なり、楽なり、覚なり、知なり。「生」はすなわちこれ成なり、作なり、為なり、興なり。


これも、そのまま、知るべきだ。解釈したら遠くなる。


つまりは、「気付いた人の心境」が書かれている。


その時、考える自分は、吹っ飛んで消えて、一つとなっている。


あらゆることが身に満ちて、一つになっている。


この心境は、もともと、誰にも、等しく具わっている心のことだ。


曇鸞も、親鸞も、ストレートに気づいた世界を吐露しているのに、真宗学は「うわさ話」をしている。それでは南泉に「あなたは、いつでも気が付けるのに、夢を見ている」と怒られる。


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