「坊さんである限りは、悟りを目指しなさい」と指導してくれたのは、天台宗探題の堀澤祖門先生だ。先生は、「智顗の理解者になるのではなく、智顗になりなさい。仏教の理解者になるのではなく、釈尊になりなさい。あなたの場合は、親鸞になりなさい。親鸞の信心獲得も、悟り境地と同じです。」と言われた。
先生の薫陶を受けた弟子一門は、当然のように悟りを目指す。先生の言葉でいえば「再誕」を目指す。「再誕」は、悟って、本当の意味での生まれ変わりのことだ。在家で仏教を知らない人も、歌人も、同じように、当たり前のように悟りを目指す。
意外とビックリしたのが、天台宗内で悟りを真剣に目指している人が少ないことだ。それは、浄土真宗でも、真剣に信心獲得を目指す人は少ない。
「親鸞にならないと親鸞のことは分からんよ。智顗にならんと智顗のことは分からんよ。」と先生は言った。
お坊さんの中で、真剣に祖師と同じ境地となって、そこから、祖師の書いた物を知ろうとする人は少ない。研究者・学者はゼロだ。みんな、目をつぶって、手で象に触れ、「象は長い」「象は団扇だ」「象は壁だ」「象は丸太だ」と言っているのと同じだ。
曹洞宗でも、悟りを目指して坐禅している人は少ないのだそうだ。
そんな話を先生がみんなの前でお話をすると「では、お坊さんは、いつも、何をしているのですか?」と質問される。先生は、「他人のことは、分からないけど、みんな、何をしいるのでしょうかねぇ。」と答える。
これが、今の仏教界の現状だ。
仏教では、「悟りの境地」を「不可思議」と説く。「不可思議」とは、「思議することが出来ない」意味で、「考えてはダメなんだよ」「考えたことは本当ではない」意味だ。仏教用語を理解することは、思議だ。理解すること自体が、思議だ。「不可思議」とは、言葉を用いる必要がないことで、直接、体ごと入ることだ。「不可思議」は、ミステリアスとは違う。「不可思議」は、考えを用いない、最もリアルな現実のことだ。直接、まるごと、体全体が現実となっていることだ。それでないと、本当に、知ったこととならない。観念だ。観念では、腹はふくれない。水は飲まないと、美味しさは分からない。先生は「なぜ、みんな、水を飲もうとしないのか不思議だ」と言う。理解とは、水を飲まないで、水の説明書を読んで分かったとすることだ。
「悟りの境地」である「不可思議」には、自分が無い。考える自分が無い。理解する自分がいない。身に満ち溢れる。身、そのものが現実。それは、観念ではない。自己暗示でもない。考えではない。常に、現実。常に「身にひびいている」。
全身全霊が現実となっている。それを「行者」という。『法華經』も身にひびかせて知るべきを説く。『法華經』の「行者」とは、体全体が法で満ち満ちて現実になっている人だ。「行」とは、身に顕現して現実となっている意味だ。法が現実となっている人を、「阿闍梨」とも言う。禅宗では「禅者」と言い、浄土真宗は「念仏の行者」という。「念仏の行者」には「功徳が身に満ちている」と和讃にある。
先生が「仏教を理解する者になるな」と指導するのは、いくら頭で理解しても本当に分かったことにならないからだ。研究しても、すぐに、忘れる。身に付かない。それは、本当に知ったことにはならない。「古則公案」ではなく「現成公案」の、現実に身で知るのが本当なのだ。実際に、「現成」であるお坊さんは実に少ない。しかし、研究者、理解者は山ほどいる。
『法華玄義』に次のような話がある。
「一匹の犬は、玩具を追いかけ回して、疲れ果ててしまった。もう一匹の犬は、今まで遊んでいた玩具を手放して、飼い主の方へ向かった。」
それは、「玩具」は「言語」のことで、いくら言葉を追いかけ回しても、疲れ果てるだけで、もう、一匹のように、悟りへの気付きへの呼び声があれば、言語を手放して、それに従うべきであるという話だ。
また、『摩訶止観』では「悟れば、木の火が自らを燃やしながら進むようなものである」とある。それは、悟った自分も、分かったことがらも無く、ただ、現実のみがあって、それは燃やしながら進むようなものだ」という意味だ。法が現実となっているとは、常に現実でありながら、いろんなことに対処しつつ、考えないで、智慧の火を燃やしていることだ。
「言葉を用いること、理解すること、解釈して知ること」は、今、生きている自分とは無関係なまま、「分かった」「知った」で満足し、それで、終わる。身に付かない。現実のようで、現実から離れている。
身を通して、現実となっていることを「道」という。柔道でも、相撲道でも、剣道でも、茶道でも、書道でも、考えないで、身で知り、身を通して表現する。
「道」を歩んでいる人が、意外と少ないのは、「仏道」だけではない。
技術とか、小手先だけで満足し、勝てば良いとし、「道」まで行く人は少ない。
でも、いない訳ではない。
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