top of page
検索

「大乘仏教」令和4年4月 明源寺 寺報『梵鐘』298号

仏教とは、文字通り仏の教えということです。仏の教えは、仏が示した教えでありますが、その示したことがらは、悟りの境地に基づきます。つまり、仏教は仏の悟りの境地に基づいており、これを踏まえない教えは周辺的な事がらです。悟りの境地は、時代や場所に関係なく、共通しています。釈尊は、インドで悟りました。悟った人で有名なのが龍樹・世親・智顗・禅宗の僧達です。日本では法然・親鸞・道元・日蓮などがおります。それらの人物の共通している境地ついて、紹介します。


 中国・韓国・日本に伝わった大乗仏教の大乗とは、悟って分かった境地が大きな乗り物に乗っている感じだからです。小さい乗り物は、私たちの人間主義的価値観のことで、頑張れば、頑張った分に応じた物が得られるという考えです。このように、人間主義的価値観とは、頑張るとか、一生懸命とか、少しでも幸せになるように、負けないように、夢を持ち続ければ叶い、努力に応じて必ず何かが得られるという価値観です。それは、誤りではありませんが、究極ではなく、小さく狭いもので、この価値観が小さかったことは、大きな世界があることを知って初めて分かります。


 例えば、その大きな乗り物に乗っているような世界について『法華經』は次のように説きます。「大乘因者諸法實相」(「大乘ということが説かれた理由は、あらゆる物事が真實であることに気が付いた様相に基づいています。」)その様相とは、「そのように気が付いたとき、気が付いた自分の心も自ずと静まりかえり、そこでは、あの時悪いことをしたとか、あの時自分は傷ついたとか、自分の人生の調子が良いとか、そういったことは全く関係がなく、かすりもしないし、全く次元が違うことが自然に分かります。それは、誰であっても、どこに住んでいても、過去がどうであっても関係が無く、どんな時でも、当てはまり、理屈抜きに、突然、分かります。その真実の世界にずっと留まったままでいられる訳ではないのですが、だからといって、その世界が消えて無くなることもないのです。このよう世界に気が付いた自分の心を顧み、観察してみると、自分がこれまで過去に経験して来たような、傷ついたり、調子が良かった時の心はあまり意味が無いことが分かり、自分が大切に思っていたような事も思ったほど重要ではなかったことに気づきます。真実の世界として広がっている世界は、これまで自分が思っていたような世界を超えた消えることのない眞實の世界として常に広がっており、その世界はとても静かなのです。」「この世界は、常に一つの乗り物のように広がっていて、二つ目、三つ目といった段階がある乗り物がある訳ではなく、全て同じ一つの乗り物なのです。また、特別な乗り物があるのでもありません。」「佛は自分自身がこのような大きな乗り物に乗った世界にいて、そこから感じ取ったことを説いており、佛はその世界にいることで、いつも同じように変わらずに、智慧の力が自ずと湧いて出て、いろんなことについて柔軟な対応ができ、他の人と同じことを言っても、どこか違う雰囲気があります。佛はこのようにして、いろいろな場合について、いろんな人に対して、その人に応じて導きます。それは、佛自身が、このような大きな乗り物に乗っているからであり、また、自分だけでなく、すべての人々が等しく同じようにこの乗り物に乗っていることから、そうできるのです。結局、自分も、すべての人も、気が付いてみれば、誰もが同じで等しい世界にいて、このことを知った人も、同じことを同じように知ることになります。ですので、自分だけがこの素晴らしい世界の秘密を知っている、他の人は分からないということではなく、修業をしたとか、しないとか、お坊さんであるとか、お坊さんでないとかは全く関係が無く、誰でも同じことを知ることができ、誰もが同じ世界に平等にいることが成り立ち、知った内容も全て同じなのです。」


 このようなことから、七高僧の一人の世親(天親)も「能令速満足 功徳大宝海」と、「このことに気が付いたら、気が付いた瞬間に、すべてのことが一気に自分の体に流れ込んで、そのはたらきで心が満たされ、 功徳の大いなる宝の海にいるような感じだ」と説いております。その世界を、浄土といいます。親鸞は、自らその世界にいて、その世界の功徳を得た立場から南無阿弥陀仏という言葉を通して広大で変わらない世界に触れる方法を示します。道元はその世界を坐ることによって示し、日蓮は南無妙法蓮華経と唱えることで示します。つまり、自分の宗派は優れていて、他の宗派は間違っているということはなく、気が付いた内容は全て同じで、皆さんの乗っている乗り物は全て同じなのです。


閲覧数:1回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page