明源寺は「宗教難民を無くす」活動をする。
そもそも、「宗教」とは、明治時代に「レリジョン」を宗教と翻訳したことに基づく。「レリジョン」は、神と衆生の関係のことで、仏教は神を立てないことから、宗教ということではないという講義を、昔、受けた。「宗」について、『法華玄義』の「名体宗用教」の「五重玄義」の話が出て来て、分かったような、分からないような講義だった。
西洋の「神」も、バチカンが言う「神」と、本来の意味は違う。本来は、「ヤハウエ」のことで、それは「私は在りて在るもの」「口にしてはいけないもの」のことだ。それを、あえて文字にすると、「ヤハウエ」「エホバ」「アッラー」となる。キリスト教では「父(ヤハウェ)」と「子(キリスト)」と「聖霊」の三位一体を説く。もともとは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に共通する概念で、「口にしてはいけない」というより、「口に出来ないもの、我々人間の人知を超えているもの」だ。「私は在りて在るものであると言った」ということも、「有る」と言えば、そのことを人間は実体化するので、実体化は人間の価値観で捉えることとなる。だから、「有る」のだけれども、「実体的にある」と言ってはいけないし、「無い」のでもない。宇宙を調和している概念とも言える。
バチカンは「実体的な神」と決めた。しかし、「神」のもともとの概念は、有るとも、無いとも言ってはいけない、我々の人知を超え、我々をして我々をたらしめ、我々をもつつみ、本来、我々にも与えられている「アミターバ・アミターユスのはたらき」であると言っても良い。
このようなことから、「宗教」とは「レリジョン」ということを超えて、世界に共通する「人知を超えたはたらき」であると、僕は理解する。山形の辺鄙な過疎地にありながら、やっていることは世界規模のことで恐縮だが、もはや大学での研究とか、学会活動とか、本山護持とか、そういう人間的なことは重要ではない。
今、問題となっている「旧統一教会」の洗脳による嘘くささ、昔の「オーム真理教」・他の宗教団体の嘘くささも、「まこと」とは何かが分かって、初めて、正体を見破ることが出来る。「まこと」を知ることが、信心獲得・證悟体験である。「宗教難民を無くす」活動は、実は、「まこと」を示すことで、「まこと」でないものを「まこと」にしているウソをはっきりさせることである。
堀澤祖門先生は「先ず、悟って、そこから始めなさい」と指導された。
そこで、また、ややこしいのは、弟子の中で、「あの人は悟った」、「あの人は、悟っていない」と気にすることだ。
それは、天台大師の時代にもあったことで、智顗が亡くなる直前に弟子たちに向けて次のように言った。「大師責弟子曰。汝等懶種善根。問他功徳。告実何益。」これを、現代文に約すと、「大師が、弟子を責めて言った。「あなた達は、善根を植えることに懶堕である。(その割には)他人の功徳を気にする。(あなた達に)言うが、それが実際何の利益があるというのか。」(大正50、196、中、9・10行目。)それは、「他人が、どの段階にいるか」とか、「あいつは分かった、あの人はダメだ」とかばかり気にして、自分の行がおろそかになっていることを叱った言葉だ。その後で言ったことが「稱我位居五品弟子」(大正46、811、中、24・25行目)だ。それは、「私は、あなた達と同じ五品弟子位として『法華經』を行じている者なのだから、他人の位を気にせずに、しっかり自分の行に励みなさい」という)意味なのだ。それが、今、誤解されて、天台宗内でも「天台大師は悟っていない」という見方になっている。天台宗では、十信十住十回向十地の初住以上を證悟とし、五品弟子位は、十信位・相似即・六根清浄位の下の、観行即にあたる。専門的な話で、恐縮だが、智顗は、誰もが同じく、いつでも、證悟出来ることを説く。教義を知らなくても仏であり、草木も仏である。智顗が臨終の時に言った言葉は「自分は、あなた達と同じなのだから、しっかり、自分の行に励みなさい」ということにある。だから、「誰が悟った」とか、「自分はまだだ」とか気にしてはいけないのだ。「しっかり、自分の、やるべきことをしなさい。」が、智顗の遺言だ。
「宗教難民を無くす」活動は、宗派を超えて、いろんなところで誤っていることに気が付いた縁があれば、そこを修正して、詰りを良くすることだ。
「宗教難民を無くす」活動は、いろいろだ。
生活保護を受けていたお年寄りが亡くなって、親戚の方が葬儀をする場合、経済的にも大変なことなので、ただ同然のような葬儀をする。通夜も葬儀もお寺で行い会場費も頂かない。葬儀屋さんには、棺とドライアイスと火葬場への手配のみをお願いした。
過疎地なので、一人暮らしお年寄り支援とか、村おこし活動の支援も、明源寺の活動だ。
山形市のデジタルデトックス活動やいろんな宗派の悟り支援・信心獲得支援活動もしている。
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