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「宗教とは」

宗教とは、根源的なあり方に気が付くことで、表面的なあり方に振り回されなくなることである。根源的なあり方と、表面的なあり方とは、次元が違う。同レベルではない。根源的なあり方と表面的なあり方の二つがあるのではない。根源的あり方は、一つの考え方、受け止め方ではない。考えを超えて、理性を超えて、理性や思考での及ばないあり方なので、根源的なのだ。


根源的なあり方は、段階が無い。優劣がない。誰もが等しい。それが「一乘」。「平等」。


理性や思考は、人間的なものだ。感情とか、頑張るとか、努力して、少しでも上を目指すとかだ。それらが人間的だということは、大脳が考えたストーリーがあるからだ。


根源的なあり方に気が付くことは、もともと、誰にでも、その根源的なあり方が具わっているので、誰にでもできる。「気付き」とは、具わっている完璧さに気が付くことだ。特別なことは必要がない。気が付けば、誰もが、「目覚めた人」として「佛陀」であり、気が付いて「イキイキと潤滑油が注がれた人のようになる」のだ。「イキイキと、潤滑油が注がれた人」が「キリスト」だ。誰もが、等しく、ちょっとしたことで、「仏陀」になり、「キリスト」になる。


そのように説くと、困る人がいる。


それが、段階を設けて、頑張って献金させて、位を上げさせ、「特別な教義を伝授してあげよう」という人だ。「自分は、特別なことを知った特別な人だ。」「秘奥を得た。誰も知らない秘密の奥義だ。」と説く人にとっては、非常に都合が悪い。


「自分は正しい。他は間違っている。」と主張している人は、「誰もが、正しいとか、正しくないとかを超えて、等しい。優劣は無い。正しくない人をも受け入れ、罪を持受け入れる、包容力があるのが本当のあり方である」とか、「本当のあり方に気が付くことはとても、シンプルで、特別なことは必要がない。」と説かれると、困ってしまう。


困ってしまうのは、「自分は特別で、特殊能力を持っている」と公言している人たちだ。「特殊な能力は無い。」「特別な教えは無いがないのが、本当なのだ」と、説かれると、困る時点で、アウトだ。ウソ・はったりが、ばれて、焦っている。その人を攻撃する。それが「折伏」だ。


本当のあり方は、とても、シンプル。


誰もが、ちょっとしたことで、自分に具わっている本当のあり方に気が付くことが出来る。


釈尊も、そう言っている。イエスも、そう言っている。そう、実際に、書いてある。


本当のあり方は、静かだ。静かでないと気が付かない。批判も無い。全てを受容する。敵をも受容する。その受容をキリスト教では「愛」という。仏教での「愛」は、「渇愛」の意味で、渇望し、執著する心のことだが、言葉の意味を超えた「愛」は、誰もがすばらしい尊重の心であり、煩悩をも受け止めて転じる広い心であり、その転じるはたらきも愛だし、その転換は法則に則った調和のはたらきでもある。調和のはたらきも「愛」だ。仏教の「愛」をも、包み込む「ビック・ラブ」だ。


それが、本当のあり方だ。「教祖だけが特殊」「教祖だけが、秘奥を知っている。」「頑張って、段階を踏んで、上のランクに入った人には、教えてあげよう。」「教祖の言うことだけが正しい。」というのは、何と狭い、自分勝手で、自己中心だということが分かる。


本当の意味での「脱カルト」「脱洗脳」「脱会」ということも、根源的、本質的なことを、本人が気付くことで可能となる。「脱カルト」「脱洗脳」「脱会」を手助けする活動者自身も、自身の、もともと具わっている、本当のあり方に気が付くことで、ブレルこと無く、根気強く支援できる。


本当のあり方に気が付くことは、誰もが、ちょっとした心の動き、目の前の花、ふと見た月、竹に石が当たった音で、石につまづいた瞬間、太陽が昇るのを見て、明けの明星を見て、その時、これまでの自分の価値観がぶっ飛び、広大な世界に落ちる。自分が無くなる。正しいもない。正義は無い。善悪も無い。優劣も無い。全てが等しく、同じ。同じ色、同じように平坦、海のように同じ塩味、それを「一相一味」の「一」であり、一乘の「一」だ。『法華經』は、一貫して、「一」の世界のこと、そのあり方、違いを超えた受容、一貫した変らなさ、時間を超えた久遠、それを「本」として示している。その「本」は、本質の「本」であり、ものごとの本質を知ることが、人間の狭い考え・狭い正義感・感情・こうでなければならない思考・現実から離れて想い描かれた人生設計から、解き放つ。


束縛から解き放たれる。


根源的に立ち上がる。


生れや育ち、イジメ、虐待などの、いろんなしがらみから自由になる。


宗教とは、そのように、根源的な解き放ち、本質的な立ち上がりなのだ。


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