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「気付き」

仏教とは、本当の世界を示して、本当でないことから離れさせるものだ。本当の世界は、どこか遠くにあるのではなく、もともと、等しく、誰にでも具わっている。でも、我々人間は、いろいろと考えてしまって、なかなかそのことに気が付かない。本当でないものを、本当だと思っている。「本当のこと」、「本当の自分」は、もともと、自分に持ち合わせていたので、それに気が付けば、体中に満ち溢れる。いろんな考えが、本当でないことも分かって、「死にたい」「消えたい」からも、解放される。


人間は、大脳がある限り、考えてしまうことをやめることが出来ない。だから、その都度、「ああ、これは、本当ではないのだなぁ」で、手放す。たとえ、失意のどん底にあっても、頭から「死にたい」「消えたい」が離れられない状態でも、心の奥底で「死んで楽になれ」との叫び声が有っても、「それは本当ではないのだ」、「大脳が、苦しんで、そう叫んでいるのだ」「大脳が、これまでの人生設計が狂って、パニックになっているのだ」で、手放す。大脳が、ある限り、誰もが、「死にたい」「消えたい」と隣り合わせで、他人事ではない。


でも、誰もが、本当の世界、本当の自分を持ち合わせているので、いつでも、どこでも、気が付くことが出来る。その「気付き」を邪魔するのも、結局、大脳だ。本当のあり方、本当の自分については、『浄土経典』や『法華經』、世親の『浄土論』、親鸞の『教行信証』に書かれている。


「気付き」の方法や「気付いたエピソード」は、禅宗の書に詳しい。考えすぎて、いちいちこれは「気付きか」と点検するならば、遠くなる。また、考えないように、何も気にせず、「お気楽・極楽」に、人生を楽しむことも、「気付き」に遠い。気付いたら、気楽になるが、好きなことを言って、好きなことをして、勝手気ままに過ごせば良いとすることも、大脳の考えだ。「これは大脳だな」「これは、遠いな」と、手放しながら、頑張らない程度の真剣さは必要だ。体全体で漬かって、いつでも「本当の世界」が開かれる状況に身を置く。デフォルトモードにいる。自分がいない状態でいる。面倒な用事は済ませておく。


「あの人は、分かっているな」「あの人は、悟ったのかも」と噂することも、遠い。今回の三宝禅の会報である『暁鐘』に次のようなエピソードが載っていた。


ある人が「誰々君は、ものごとが分かっている人だ」と南泉老師に言った。南泉老師は「お前は、牡丹の花を見ながら、夢のような話をしている」言った。


誰が、どうだとか、噂することは、気付きに遠いということだ。


天台智者大師も遺言で弟子たちに次のように言った。「君たちは、他人の修行状態の進み具合ばかりを気にしている。それが何んだというのだ。」と。誰かのことを気にしたり、「これは悟りなのか」と、いちいち、チェックしていたら、本当の「気付き」に遠い。ちょっと真剣に、無防備ぐらいが良い。


一生懸命に坐禅会に行って坐っている最中よりも、坐禅会が終わって帰る電車の中で、外の景色を見ていた時の方が気付きやすい。ひと段落して、「ぼー」と山を見た時の方が、気付きやすい。でも、「これがそうか」とチェックすると、どこかに行く。


気付けば、「功徳は行者の身に満てり」「身心脱落」「自分がない」「1週間聾した」「消えない」「まったく違う」。でも、焦ったり、憧れたりすると遠くなる。「ある日、突然」だそうだ。


釈尊は、明けの明星を見て、その後で、本当の世界のあり方を観察して、すべて縁起なのだなと知った。本当の世界は、大丈夫な世界なのだが、それは、因と果が法則に則って流れているので、くよくよしなくても、そのままで良いことを知った。大脳が、いろいろ考えている原因も因と果を自覚することで手放す。本当の世界も因と果の縁起だ。本当でない原因の世界も因と果の縁起だ。その原因と結果を知ることで「死にたい」「消えたい」を手放す。だから、ただの「お気楽・極楽」ではなく、因と果の「自覚」が、苦しみから解放させるというのが、釈尊の教えだ。迷いや悟りの因果を自覚することを示さずに、教義を暗記させたり、さも分かったような理屈を言ったり、哲学倫理道徳を示したり、壺を買わせたり、上から目線で「救ってあげよう」と言うのは、外道だ。


哲学倫理道徳では、心の面での生まれ変わりが無い。価値観の強制化となり、頑張れ、気合い、努力、丸暗記、思い描いた理想世界であり、すべて大脳の価値観内でのことだ。心の奥底からの、エナルギーが無い。立ち上がれない。親鸞・道元・日蓮は、哲学倫理道徳の及ばない、それらの価値観が転じ、それらを包み込んだ境地を説く。努力の有無も関係が無く、頑張らなくても大丈夫で、何も気にしなくても平気で、「死にたい」「消えたい」から解放された、自由で、イキイキとして、動じない、清らかな、静かな、毀誉褒貶にも振り回されない、もともと、誰もが、等しく持っていた世界に、往ったり来たりする生き方を説く。


往相・還相だ。如来・如去だ。


それも、廻向として、もともと与えられていたので、苦ではない。


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