「泥仏」は、僕の師、堀澤祖門先生の言葉です。フェスブックで、先生から「(私は)泥のままでいいと思っております。泥を取ることより、泥そのままで仏なのだと確認することが何より大事だからです。一元のことを念じながらも私たちはどうしても二元的な長い慣習のためにそれに引きずられることが多いのです。しかし、それでいいのです。それが人間なのです。悟った人も悟れない人も、結局は、大した違いはない。(それは)人間の認識の問題に過ぎず、そんな認識を越えて、事実は、現実は、活き活きと動いているからです。」との返事を頂きました。
「悟った人も悟れない人も結局は大した違いはない。」とは、悟った人も、悟っていない人も、同じ仏のいのちを生きていることから、違いは無い意味です。私たち人間は、悟ったとか、悟っていないとか、二つに分ける見方しかできません。それが、「二元的な長い慣習」です。悟りという「一元のことのことを念じながら」、「悟った・悟っていない」と二つに分けて見ています。それが私たち人間の「執われ」であり、「長い習慣」です。「悟った」と言う人も、「悟っている・悟っていない」の「二元的な長い習慣」に執われており、それを「我執」と言います。本当に悟っている人は、「悟っている・悟っていない」の執著を離れているので、「悟った」という意識がありません。本当に悟った人にとって、「悟った・悟っていない」は、大した違いは無いので、そのようなこだわりはどうでも良いのです。悟った人は、「悟り」を口にしません。ただ、例えば、「桜島の大根は、でっかい。」「月が出ている。」「星がある。」「山。」「家。」「畑。」「田。」「草。」「土。」とだけ、口にします。それで十分で、全てです。
それでは、あまりにも当たり前すぎて、悟っていない人との区別がつかず、「つまらん」「分からん」と思われるでしょう。しかし、そこには、同じ仏のいのちに気が付いた深さがあり、このような感覚は、今まで認識していた感覚と全く違う感じがあります。以前、紹介しました『起信論』の「覚心初起」の感覚です。これは「初めてである」衝撃があり、それが大和田奈緒さんのいう「自分はいない」感覚です。その衝撃が心に残り『起信論』の「心性常住」として、その感覚が常に消えることなく、変わることなく続きます。衝撃体験は自分に起きたことですが、自分から起きたことではありません。我執から衝撃は起きません。人間の二元的長い習慣からから衝撃体験は生じません。それは長続きしないことでも分かります。その衝撃体験を分析したり、確認せず、「月が出ている。」「山がある。」「草。」「土。」で十分です。禅宗でも、いろいろと語ることを嫌います。「悟りという言葉を口にすると、口が腐る」のです。
人間はいつも満たされない心を持っています。満たされない心を、「悟り体験」ということで満たそうとしても、本当ではありません。それは満たされない心のまま、右手から左手に移ったに過ぎません。そこで、「人間は常に満たされない心を持っているものだ」ということを自覚することで、その満たそうとする執われを手放さなければなりません。飽く無き欲求を持つ人間は「自身はこれ罪悪生死の凡夫、常に沈み、常に流転して出離の縁なき身」です。人間は常に何らかの欲求を持ち続ける身です。承認欲求を持つ身です。その承認欲求を「悟り」方面で満たしても、長続きしません。それは、本当でないからです。
結局、承認欲求が現代社会の根源なのです。満たされない心があるから、満たされたい。我々が優先すべきは「満たされたい心を持っている身であることを知る」ことにあり、確かに満たされない心があることを知って、身の事実に納得し、自身のマインドに騙されなくなれば、全てが、もともと、大きな満たされた世界であったことが分かります。事実のまま、解釈なく、「月が出ている。」「山だ。」「草。」「土。」です。それが悟りであり、悟っていることの確認は、どのような場合においても「常」であるか、「それは自己承認欲求ではないか」を確かめることで分かります。自己承認欲求を手放すには、自分の承認欲求を自覚する必要があり、それを「機の深信」「マインドをマインドとして受け止める」と言います。悟りは精神界最高の究極であるものの、悟った内容は「山」「草」「土」「一つ」という当たり前のことです。しかし、悟った人から見た「山」「草」「土」「一つ」は全てが一つで同じで、そこに飾りや想いはありません。どのようなことも違いが無く、ただ、それ、だけ、です。
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