お寺の跡取りとしてこの世に生まれた以上、仏教の何たるかも分からずに、お説教をすることはできないので、釈尊の悟った内容や親鸞の本願を成就した時に広がった世界について、これまで学んで来ました。悟りの境地は、たとえ災害にあっても、戦争になっても、イジメにあっても、変わることのない境地です。よって、その境地は、単なる思想でも、生き方や哲学でもなく、人類に普遍する根本真髄として最も重要なことがらなのです。親鸞は「たとえ地獄に落ちても後悔はしない。」と説き、日蓮は「わたしに難勢を加えることはできない。」と言いました。
悟りの境地について、例えば、『大乘起信論』という書物に次のようにあります。「覺心初起、心無初相。以遠離微細念故。得見心性。心即常住名究竟覺。」。これについて、解釈しますと、悟りとは頑張って努力すれば得られるものではなく、かえって、思い込みが強ければ強いほど、その思いが邪魔になって遠のきます。例えば、池に映った月と同じで、思いが強ければ水面にさざ波が立ち、その思いが静まった時、水面に、もともと月が映っていたことを知るようなものです。頑張って修行すれば、その頑張りが妨げになりますが、だからと言って、ダラダラ生きて良いものでもありません。ある人は、「それは、思いがけず、突然、起こった」と言います。突然起こったことが本当かどうか、どうして分かるのかと言えば、それが『起信論』の言葉です。「覺心初起、心無初相。」とは、「目覺めたという心が、初めて起きた時、その気が付いた心に、初めてという思いが無い」という意味です。「覺心初起」と「心無初相」とは、矛盾しているように見えますが、「覺心初起」の目覺めた心が「初めて起きる」とは、今まで自分が思ったり考えたりして来たような判断で分かるような知り方ではない衝撃があったので「初起」なのであり、「心無初相」とはその時の心に、これまで考えていたような判断ではない知り方であるものの、「それは元々あったのだ、ただ、気が付かなかっただけだったのだ。」と言う分かり方であるという意味です。それが、水面の風がおさまれば、もともと月は出ていたことに気づいた意味です。
『起信論』の続きである「以遠離微細念故。得見心性。」の「微細の念を遠離するを以ての故に、心性を見ることを得る。」とは、「これまでのいろいろと思ったり、考えたり、判断したり、研究したり、観察したり、頑張ったりするとは、まったく遠く離れた分かり方であるので、遠く離れていたとはこのことかと、腑に落ちた時、心の本質に広がった、もともと月があった世界を知る」という意味になります。「心性を見る」とは、元々、自分に持っていた本当の自分を知ることで、誰もが等しく同じ性質であることが分かるという意味です。また、元々、誰もが等しく同じ乗り物に乗っていて違いは無いのだという本質的なことに気が付いたと理解しても良いです。
そして、このように気が付いた心は、「心即常住名究竟覺」と「気が付いた心は、そのまま、消えることが無く常にあり、この境地を究竟なる覺りと名づける」とあるように、常に、消えることなく、無くなることなく、留まって、怒りやイラ立ちや悲しみで、我を忘れそうになっても、怒りや「イラッ」としたことは本当ではないし、本質ではないことに気が付き、その消えない、元々持っている本当の自分でいられる世界、元々広がっていて、等しく、同じ、一つの世界に帰ることが出来る意味です。これが究極の気づきであり、それ以上特別な分かり方はなく、段階もなく、誰もが同じ内容の分かり方です。月は、在家信者が見ても、学者が見ても、農家の人が見ても、菩薩が見ても、同じ月なのです。
ただ、気を付けなければならないのは、少しづつ立派になって月を見るのではないということです。仏教を知らない人でも、その世界を知ることができ、知識が無くても気づくことができます。ただ、知識が豊富だと、いろいろ考えすぎるために、かえって、心の水面がざわついて、見えないものです。「覺心初起、心無初相。以遠離微細念故。」とありますように、考えたり、研究して分かる知り方ではないのです。「覺心が、初めて起った」、「これは、初めてだ」という驚きがないと、「常」とならず、消えて、分からなくなります。「常」であるから、消えずに、頑張らずに、いつも帰ることが出来、迷いません。
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