悟った人は、「何も起こっていない」と言います。例えば、悲惨な戦争が起きても、コロナで生活が困窮しても、学校でいじめにあっても、「何も起こっていない」と言うでしょう。悟った人が悟り境地を口にする場合、ものすごく誤解を受ける可能性が大きいので悟った内容を口にすることを躊躇します。悟ったと言いたい気持ちもありません。まして、悟ってもいないのに、中途半端な気持ちや注目を集めたいがために「私は悟った。」と言って、悟りを口にするならば、生半可な発言によって傷つく人が多いために、その人の罪はとても重いです。「悟ったと口にしてはいけない」と老師は指導します。また、「自分は悟った」と自慢げに言う人の話ほど、聞く気になりません。それは、自慢話だからです。
「何も起こっていない」とは、言葉が不足しており、正確には「悟った自分にとって、何も起きていないのと同じだ」という意味であり、悟った人は「何も起こっていない」に引き続いて、「でも、何でも起こっている」と言います。それは「悟った自分にとって何も起こっていないのと同じだが、現実には全てのことが起こっている」との意味です。さらに、悟った人は「全てのことが起こっていても、そこに、私はいない」と言います。「私はいない」とは、悟った世界は、私とか、あなたとか、そのような枠で捉えることができず、私やあなたが無い世界だからです。自分がいない、他人もいない、ただ、一つの世界があり、それは一様な世界であり、その世界の知り方は、これまで自分が生きて来た知り方と全く異なって、次元が違う分かり方で、その世界を知ったことがずーっと常に続き、消えることが無い、心配しなくても無くならない、減らない、増えもしない、垢つくこともない、破壊されることもない、分析解釈できないし、する気もない、頑張ってもう一度生み出す気持ちもない、宣伝する気も無いのです。現実に戦争が起きて、自分が悲惨な目に遭っても、自分にとっては傷つくこともなく、失われることもないという意味で「(自分にとって)何も起きていない」という言葉が発せられたのです。故に、悟りの言葉は、現実に悲惨な状況にある人に向けられたものではなく、自分がどのような状況にあっても、「悟りの境地にある自分にとっては、何も起こっていないのと同じだ」「悟った自分にとって、たとえどのようなことが起こっても、自分はしっかりとした足場・消えない境地にいて、生死をも超えているので、災害に遭っても、かすりもしないければ、痛くも無い。何故なら、たとえ、今、死んでも、生死を超えているので何ともなく、気にならない」との意味です。そのような境地は、悟った人共通であり、人間が考えたり、思ったり、解釈することと違った、これまでではない知り方です。これを「覚心初起」(覚りの心が初めて起こる)の「初」の意味です。初めての知り方ですが、知ってみれば、元々、あった「本」・「具」で、これまでの知り方は本当ではなかったことがはっきりする分かり方です。つまり、これまでの知り方は価値が無いこととして、自然に手から離れます。頑張って手放なさなくても良く、頑張れば頑張るほど手放せません。「頑張らない、夢を描かない、期待しないことを、私たち人間に説いても分からないのではないか」と、ためらったのが、釈尊の「説法躊躇」です。
しかし、釈尊は説法します。梵天が勧請し、梵天の勧めに従ったからと言われますが、それは、正しい理解ではありません。実は、草木もそう言っている、全てのものがそう言って証明しているから、草木と同じように説法したのが本当です。それを「草木説法」「諸仏同讃」と言います。「説法躊躇」と「諸仏同讃」はワンセットです。悟った境地はどの仏も同じで、それを「諸仏同証」「唯仏与仏」といいますが、仏だけでなく、菩薩も同讃してくれます。『法華經』でも、たくさんの菩薩が地面から湧き出て同讃します。浄土経典でいえば『大無量寿經』の十七願の十方世界の無量の諸仏が我が名を称えるということが相当します。「重誓偈」の名声が十方に超えることでもあります。親鸞は、十七願に諸仏が称讃する声を聞きました。いろんな祖師の文献を読んでみると、諸仏同讃的なことが書いてあると、この師は、これまでの人間主義的な知り方を離れ、次元の超えた異質な知り方を経験したことが分かります。常にその世界が続き、草木などのあらゆる存在が常に褒めたたえ、間違いがないことが分かったのが「諸仏同讃」で、やがて、もはや悟りを口にする気も無くなります。
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