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「釈の会」令和4年6月 明源寺 寺報『梵鐘』300号

「釈の会」は、天台宗三千院前御門跡の堀澤祖門先生が会長をなさっている宗派を超えた会です。明源寺も「釈の会」の会員寺院です。


以下のことは、僕が勝手にまとめたことですが、会の趣旨は、先ず第一に、お釈迦様が悟った境地を明らかにすることにあります。「釈の会」は「釈尊の会」の意味でもあります。会員メンバーは、それぞれの立場で、自分なりの方法で悟りを目指します。それは、仏法を学ぶ者の基本主題だからです。堀澤先生自身が、常に坐禅をし、私たち弟子を指導されており、弟子一門はその薫陶を受けています。


第二番目に「釈の会」の「釈」とは、仏弟子として、一人一人が等しく同じであるという意味です。亡くなれば、誰もが「釈○○」という戒名(法名)が付けられます。坊さんも「釈○○」であり、在家の方も「釈○○」で、そこに違いがありません。僧侶はたまたまお寺に生まれたから、僧侶なのであり、偉い訳ではありません。お釈迦さまは「生まれによって尊いのではなく、行いによって尊いのです。」と説いております。「釈の会」は、そのような釈尊時代の僧侶のあり方に帰ろうという会であります。「釈の会」の会員は、在家の方も多く、宗教の本質とは何か、仏教の本質とは何かを学んでおります。仏教の教えの根本を何らかの形で求めている限り、一人一人は仏弟子であり、そこに僧侶や在家の違いは無いのが「釈の会」です。


三つ目に「釈の会」の性格として、悟りの根本から、世の中を見ることを目的にし、悟った境地から戦争・自殺・イジメ・格差社会・ストレスなど社会問題を考えます。それは悟りは世界に共通する普遍性を持つからで、その意味では、釈尊を超え、時代を超え、宗派を超え、僧俗を超え、生死(生きている人・亡くなった人)を超え、キリスト教・イスラム教・スピリチュアル系など、宗教に関心が無くても、言葉を超え、人種を超えています。「釈の会」は、世界レベルでの、言葉の表現を超えた理や法における交流を行っています。それは、悟りの境地には、一切の違いが無く、壁や枠が打ち破られているからです。


四つ目の「釈の会」の性格として、「ざっくばらん」ということがあります。入会・退会規定というものがありません。特に、会長が堀澤先生だからといって、崇める訳ではありません。自分なりに釈尊が説いた悟り境地とはどういうものかを求めるならば、誰もが会員です。悟り境地は「見性」「得生」「本願成就」「信心獲得」とも表現されます。「釈の会」は、宗派にこだわらないので、各宗派の教義を超えて、言葉を超えた境地を明らかにし、教義においても「ざっくばらん」です。また、みんな仏弟子なので、人間交流面でも「ざっくばらん」で、自由で、気さくです。みんな、偉そうな所が無く、全員が仏教本来の意味を求めており、誰かが困っている姿を見れば、何とかします。「釈の会」の会員寺院は、常に困っている人に寄り添います。


なぜ、このような「釈の会」が重要なのかといえば、今の時代、心の依り所が不明瞭で、お坊さんも「何が本当の仏教なのか」「僧侶はどうあるべきか」「お寺のあるべき姿が分からない」ということがあるからです。何が本当のあるべき姿なのかが分からないので、お坊さんがお金儲け主義に走り、偉そうにしてしまいます。本当のことが分からないことで、本当でない物を、本当であるとするのです。「何が本当の僧侶の姿のあり方なのか分からなければ、それぞれが納得いくまで求める」それが、「釈の会」です。「釈の会」は本来の姿を模索し、宗教難民を無くすことを目的に活動します。現在、世界中が宗教難民です。お坊さんも宗教難民です。一般在家の方々も宗教難民です。


悟りの世界は、戦争や災害、事故、老病死にあっても、動揺せずに対応し、それらのことは、かすりもしなければ、悟りの世界が壊されることもありません。悟った人は、「何も起こていない。」とさえ言います。悟りの世界は、「不生不滅。不垢不浄。不増不減。」として、悲惨な目に遭っても動じません。また、このことは観念でも、自己暗示でもありません。悟った人は「悟りは存在します。それは、不意に、突然やってきます。消えることなく、常に続いています。頑張ると、その頑張りが邪魔します。その世界の気づきは、初めて知る知り方ですので、すぐに、分かります。これまでと、全く違います。」と言います。先生は「それが、分かるまで、また、坐りましょうか。」と指導します。


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