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「願」  令和3年11月 明源寺 寺報『梵鐘』293号

更新日:2021年12月26日

 人生、生きていると、目の前が真っ暗になり、生き詰ることがあります。それは、自分だけでなく、誰にでも当てはまることであります。お年寄りに聞いてみればわかるのですが、そういうことは、人生、何度かあるもので、特別なことではありません。私達人間は、誰もがちょっとしたことで落ち込み、心が傷つき、冷静さを失うものであります。人間は、いろんなことでストレスを抱え込み、気晴らしをしないと生きて行けない弱い所があります。周囲を気にしてばかりだったり、心配性だったり、考えごとばかりし、ちょっとしたことで訳が分からなくなり、冷静さを失い、パニックになります。目の前が真っ暗になると、「死んだ方がマシなのではないか」「死んでしまいたい」とかの考えが頭をよぎります。その時の自分は、心が煮詰まっていて、一杯一杯で、他のことが考えられない状態になっています。

 そのような極限状態の中で、「そっちじゃない」との選択が、とても重要です。はっきりと申しますと、生き詰って、冷静さを失って、パニックになっている自分は、本当の自分ではないのです。本当の自分は、もっと奥の無意識層の、マイペースで、自由で、力強く、変わらない自分が本当の自分であります。生き詰っている自分は、本当の自分を守るために、先々を心配する役割りを与えられた者で、それは大脳が受け持っています。そして、本当の自分は、なかなか自覚できないぐらい深いところにあります。誰もがそのような自分らしいと言える自分を持っております。そのような自分らしい自分は、考えるならば全く分からないものであり、また、私たちに人間は考えないということができないことから、ますます分からなり、大脳が考えた自分を本当の自分だと思ってしまいます。

 本当の自分らしい自分に出会うにはどうすれば良いのかと言えば、大脳を安心させてあげるということが重要です。大脳は、先回りしていろいろな予定を立て、順調に行くように命を守ることが仕事なので、大脳が気にしている心配事を片付けておくということが一つ目です。二つ目は、大脳が安心した状態で休んでいると深層心理としての自分が自由に浮かび上がって来ますので、出来るだけ自由に歩き回れるようにバタバタした生活から離れ、ぼんやりできる時間を持つように心掛けます。つまり、生活をシンプルにするのです。三つ目に、自分のことよりも必要としている方のことや困っている方を優先し、みなさまができるだけ苦しい思いをしないような願いを持つことです。誰もが少しでも幸せを感じ、心が楽になり、たのしいと思ってもらえれば良いという願いを持つことです。自分のことよりも、相手のことを優先にすることで、自分の都合とか、自分の考えが少しづつ薄まって来ます。これまでの自分の考えを中心にして来たことと違った視点で、世の中が見えて来ます。自分の考え中心に生きて来たことが、本当に自分中心だったことに気が付き、みんな一人一人が同じように自分中心の考え方に生きていて、自分と同じように、自分の考えに自分で生き詰り、苦しみ、あえいでいることに他人事でいられなくなります。みんな人間である限り、大脳を持っていて、その大脳がいろいろと予定を立ててくれて、その大脳の予定に自分が生き詰っていることが、誰もが全く同じであることが分かります。大脳が大脳に操られ、その大脳のはたらきをチェックできないことが人間すべて同じで、そこに賢いも賢くないも違いが無いことがすんなり分かるでしょう。それを「無明」と言います。「大脳がある限り、誰もが無明なんだなぁ」と分かることを「宿業」というのです。

 「願い」は、人間の深奥に持っている大事なはたらきです。それをキリスト教では「愛」というのかもしれません。ただ、「願」にしても、「愛」にしても、そこに自分というものがないのが本当の「願」や「愛」です。このようなことから、「何か、お願いごとをする」とか、「アイ・ラブ・ユウ」の愛とは違います。自分のことよりも、他人のことを優先することは「慈悲」と言っても良いですが、上から目線の、困っている人を救済し、そこに自己満足を得るというのとは違います。そこに何らかの自分があるならば、それは「自力」です。「願」に自分ということがないので、「願」には自分の都合の否定ということがあります。大脳のはたらきには、自分の都合の否定ということがありません。如来は如来のままなのではなく、生きとし生きる人々へのはたらきかけがあることで、自分のことを後にして、衆生を先とする自分の都合の否定ということがあります。それによって、如来は如来となることがでるのです。私たちも、「衆生と共に」という願いがあることで、自分無き、自分らしい自分となることができます。それは、誰もが同じ「無明」という「宿業」を持った存在であることから言えるのです。                         合掌


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