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「豊か」令和3年7月 明源寺 寺報『梵鐘』289号

更新日:2021年12月23日




 先生はおっしゃった。「本当に偉大な世界は内に有って、外には無い。外に何か求めて豊かになろうとすると、外の世界に惑わされて静かでいられなくなる。目が外に向くと、元々持っている内の豊かさに気が付かない。」

 『与七郎 無弦の琴』の著者の丹在環さんは言う。「与七郎のように清貧が良い。質素なのが良い。内が豊かな人は外が質素だ。やたら金があったらだめだ。金が無いから、工夫する。」

 そういえば、『与七郎 無限の琴』の中で、与七郎成伸は暇さえあれば本を読んでおりました。それも農業関係の本でした。与七郎成伸は、どういう時節に、どこに、何を植えたら適切に収穫が上がるか、余念がありませんでした。そのような研究に余念がないのは、自分のためでなく、村人の暮らしが少しでも楽になるように、自分の立場や藩を超えての大きな願いとして、村民を思いやる深い慈悲の心が本質にあったからだと思います。なにげなく子どもからお年寄りまで声をかけ、困っている人をなんとかしようとする気持ちは与七郎にとって自然なものだったと思います。

 『与七郎 無弦の琴』では寺山の毘沙門天にも触れておりますが、毘沙門天は一般的に戦いの神として荒々しいイメージです。 『与七郎 無弦の琴』での毘沙門天は、村人の生活を守り、みんなの願い事を一つ一つ聞き入れ、智慧があり、力強さも兼ね備え、吉祥天を奥さんとして家庭を大事にする毘沙門天です。インド・西域では荒々しい戦いの神でも、日本に来たら庶民の味方になって、村人の身近な存在となって信仰されます。明源寺境内にある毘沙門天は、与七郎成伸の父である成啓の協力を得、京仏師立慶が掘った毘沙門天で、お顔に荒々しさはなく、目のクリッとした、何でも問題を解決してくれそうなお顔立ちです。天平・奈良・平安時代から江戸時代に至るまで、北方の守り神として柏倉の村民の信仰を集めていたことは、『毘沙門堂再建進帳』の何処に住んでいる誰が杉を何本、檜を何本寄付したというの見ても分かります。

 丹在環さんは言います。「スリランカの田舎のお坊さんは良い。実に清貧で、決まった時間にお経を読んでいる。それに比べて都会のお坊さんはお金のことばっかり考えている。柏倉は昔から変わっていないのが良い。富神山があって、田んぼに稲が実って、川が流れ、昔と変わらないから良い。」

 明源寺は片田舎の小さな貧乏寺でありますが、だからこそ、変わらない大事な意味があると思います。変わらないとは風景が変わらないという意味もありますが、お寺として宗教的な意味が変わらないということです。宗教的意味が変わらないとは、お釈迦さまの時代や親鸞の時代にあっても、変わらない意味を見失うことなく、はっきりとしているということです。今は、新型コロナによって仏事も以前と変わってしまいましたが、宗教的な意味としては、仏教徒であるとか、他教徒であるとかも関係なく、時代も関係なく、老いること、病気になること、お亡くなりになること、不安や悩みや生きること自体に困難が伴うことは変化することがありません。中には、立場の弱い方もいらっしゃいますし、人それぞれ、生き方もそれぞれ違いを持っています。明源寺はその違いを受け止めて、面倒くさい理屈を言わず、「ダメ」とか、「できない」と拒絶せず、「困ったことがあったら、何とかする」ことから始めたいと思っています。誰もがすき好んで苦しんでいる訳ではありません。ちょっとした条件が違ったことで、苦しい状況になったのであって、他人事で済ますわけにはいきません。

 仏教に限らず宗教全般の本質といいますか、悟りや獲得信心の境地とは、全てを受け入れ、否定が無く、力強くて、智慧があり、確かで、慈愛に満ち、常に変わらず、静かで、ありとあらゆるものを分け隔てることなく、同じように元々完璧なことに気がつくことを説きます。誰でも、その本質は、元々、持っているのであり、ただ、気が付かないのです。それに気が付いて、生き方に表れたのが与七郎成伸であり、毘沙門天です。そのようなこと具体的に表現する場所がお寺であります。明源寺は無理なく、肩に力を入れることなく、そのような場所であれればと思っています。

合掌


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