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山形市のデジタル・デトックス

山形市がいろんな人を受け入れる、人と心にやさしい活動として、都会の方や外国人の「心の癒し」や「ストレス解消」のため、お寺で「デジタルデトックス」をし、豊かな自然を生かし、のんびりしてもらうという活動がある。明源寺はその寺院として協力している。また、学校から、「学生の心の安定・イライラ解消・挫折からの立ち直り・人間関係・誰にでも優しい・人格尊重など、心の面からのお話をしてほしい」という依頼があった。


その場合、出来るだけ宗教色を排除して、一人の宗祖を讃仰することなく、客観的な話をしなければならない。その時、「親鸞」とか、「念仏」の話だけでは無い。「人間の感情」「人間が考えること」「深層心理」「深層心理を成り立たしめている深い心」などの心理学や脳科学の話、また、宇宙の法則、「ア・プリオリ」の哲学、「デフォルトモードネットワーク」の大脳と海馬の話、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・仏教の本質について、それらがどう生きることと結びついているのか、悩みや苦しみ、ストレス、不安の軽減と解消法、心が安定する方法、悟りとは何か、その具体的例として、親鸞の信心獲得、道元の身心脱落、日蓮の妙法、新興宗教との違い、迷信と正信、人生の究極目的、人は何のために生まれて来たのか、勉強の意味、技術習得の意味、匠の道、一流選手の心、イジメ・犯罪・暴力・依存・自殺の心理、挫折や失敗の意味、立ち直り方、イライラした時の心の対処法とその実践、智慧に基づく集中の仕方、潜在能力の発揮、マインドフルネスについて、人間とはどういう生きものか、生れ・病気・老い・死を超えるということ、そのような話をしていると与えられた90分も、あっという間に終わる。


僕自身、毎日、坐禅を欠かさないので、瞑想の話とその実践、呼吸と心について実際に体験してもらう。講義だけだと、退屈してしまう。眠気からの出る方法も実践してもらう。ストレスや不安・悩みは人間共通の問題なので、宗教色を無くして心の問題について、お話をする。


浄土真宗の「至心・信楽・欲生」「本願招喚の勅命」「悪人正機」などの話は、挫折から立ち上がるのに適している。それも、「あみだ様がいて」、「法藏菩薩様が昔、願いを立てられて」という物語ではない、非神話としてお話をしないと通じない。「ありがたい」「もったいない」「おかげさま」の感情論・人情話では、外国人や若者には通じない。


「ありがたい」「もったいない」「おかげさま」などを超えて、目を世界に向け、現代社会や若者の現状に合った、イジメ、ストレス、イライラ、不安、失敗、挫折、自殺に答えるような心構えが必要だ。「本山護持」と参与さんは何度も口にしていたが、それでは、内輪のことでしかない。現代の末寺も「生活護持」「お寺維持」の関心しかない。だから、「葬式のお布施が足りない」だのと文句を言い、「どうやったら、お寺として生活できるのか」の感心しか無いようになる。「護持」「維持」では、将来の先細りが目に見えている。


堀澤祖門先生は良く「道心の中に、衣食あり」と言われていた。「しっかりと、悟り、悟りに基づいて道を歩んでいれば、生活のこととかは、後から付いて来るから、心配するな。その心配する自分の枠を破れ。しっかり、道を歩め。それは、難しいことではない。ちょっとしたこと、ちょっとした物、ちょっとした心の動きに、完璧なものが具わっていることが分かる。それに、気付くことで、目覚める。今、ここ、だ。」と指導する。


「仏教全体が、仏教という枠を破らねばならない。枠とは、主観の枠のことだ。主観は枠だ。本山護持も枠だ。生活護持、寺院維持も枠だ。主観では、限界がある。主観が、ひっくり返って、底が抜けないと、エネルギーが湧き続けることがない。真に自由になれない。枠にはまっていては、限界がある。わがままになる。心の底から、立ち上がることが出来ない。生死を超えることが出来ない。生死も枠だ。老いも、病気も枠だ。悟るとは、枠を破ることだ。枠を破ることで、自由を得、ストレスも関係が無くなり、いろんな感情にも振り回されない。地面に足を着けて生きる。生活の心配ばかりするな。枠を破れ。破ってワンネス・一乗のはたらきを感じろ。」だ。


「マインドフルネス」は、もともと、仏教の「正念」とか、「止・観」の「観」である「ヴィパッサナー」に基づいているが、今では、仏教色を無くして、心理的・身体的健康や良好な人間関係、冷静な意思決定、仕事や学業への集中、全般的な生活の向上などに効果があるとして注目を集めている。また、アメリカでは、自己修養、自己成就、自己増進のための方法と理解され、実践されている。マインドフルネスは、依存や心配を減らすのに有効であるとの多くの研究が報告されている。


仏教の概念の枠、言葉の枠を超えて、活動することは重要なことだ。それによって、世界に適応する。生きることに適応する。


「正念」とは、釈尊以来続いている、目覚め、気付き、悟りへの方法だ。


ふと、「止」として、ちょっとしたことに、心をとどめたら、「観」として「ハッと、気付いて、智慧が生じた」というのが、「ヴィパッサナー」の意味だ。


結局、悟れば、目が覚め、智慧が生じ、仏教にもこだわることなく、枠を破って、生きることに適応する。


生活は、その後。


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